日々の学び : 澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

本サイトでは”現役スポーツアナリスト”の「日々の学び」をブログとして書き残していきます。

SMの「サディズム」の言葉の元になったフランス人、マルキ・ド・サドの翻訳を広めたことで有名になった澁澤龍彦という人の人性論。なかなか刺激的な内容であった。

高校時代の友人が絶賛していて拝読。ぼくがラグビー部に入ったきっかけになった友人だ。

まず文春文庫さんの紹介文を。

人生に目的などありはしない。信ずべきは曖昧な幸福にあらず、ただ具体的な快楽のみ……。時を隔ててますます新しい、澁澤龍彦の煽動的人生論。三島由紀夫絶賛の幻の書。
追求すべきは社会が描く「幸福」ではなく、「快楽」なのである、と。

寺山修司の「幸福論」のようなエッセイ?人生論?であった。文豪はみんな破天荒な性分なんでしょうか。

好きだったエピソード

退屈地獄からの脱出

冗談言っちゃあいけない。いくら未来の「あかるい社会」のことを頭のなかに思い描いたって、苦しい仕事が楽しくなるわけがない。そんな歌で満足してられるとすれば、宗教と同じです。

〜しかし、考えようによっては、退屈は人間だけがもっている特権的な感情です。
〜退屈の反対は「刺激」ですが、刺激もたび重ねってくると、たちまち麻痺してしまう。〜つまり、退屈とはそういうものなのです。平凡な時間の連続のなかに、キラッと光るような瞬間がある。こいつをだいじにしなければならない。

日々の仕事を頑張ったら報われる、だとかそういう音楽、映画が流行っている、というかそういう物語構造が常に社会から必要とされているのが世界全体の流れだと思う。ただ、一番大切なのは苦労なしに満足感はない、ということなのではないだろうか?

苦しみこそが人生だからですよ。苦しみのない人生にどんな満足があるっていうんです。

「カラマーゾフの兄弟」イワンのセリフのセリフを思い出した。常に表裏一体で、どちらが欠けてもどちらも何でもなくなってしまうのかもしれない。

個人的には、映画も音楽も必ずハッピーエンドでいて欲しい派ではある。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が好き、という「映画好き」だが、ラース・フォン・トリアーが男性器を切る映画作る監督だということはあまり知られていない。

博愛主義は、うその思想である

また、他人の快楽がそのまま自分の幸福になる、というのも賛成しかねる意見です。もしそういう人がいたとしたら、それは利己主義と変わりがないではありませんか。

「カラマーゾフの兄弟」、「大審問官」で取り上げられたテーマに少し似ているかもしれない。つまるところ、ボランティアは他社の幸福を自分の快楽として承認欲求を満たす手段、の一つという側面もあるのだろう。

実際、社会的承認というか承認欲求を満たすためにボランティアをされている方も少なくない。悪い意味ではなく、ボランティアといえど突き詰めれば無償の愛ではないはず。それをあえて糾弾する必要は全くないと思うが。

まあドフトエフスキーは神様相手にそんなこと言ってるんだから人類生まれてからの普遍的なテーマなのだろう。

ただただ僕は、他人ではなく自分のための快楽を公言して追求していきたいものだ。

レジャーの幻想に目をくらまされないこと

与えられるレジャーのちっぽけなイメージに、目をくらまされてえはならないということ。

パチンコ屋や海水浴場など世間が描く、「レジャー」に惑わされるなということ。実際、時計と汽車は、産業革命の際に農民から工場での労働者に変わった人たちの時間感覚を矯正させるものだったと言われている。遅れたら旅行に行けないということから時間感覚=出勤/退勤を意識するようにさせたとか。
結論、疎開しろって話に行き着くのはやや反対だ笑 疎開はしたくない。

結び-快楽は発見である

自分で味わってなければ、何もわかりません。新しい快楽は、自分で味わい、自分で発見すべきものだということです。

卵を割らなければオムレツは作れませんし、本は読まないと分からず、映画も見ないと分からないものだ。人と人を分ける何かがあるとすれば、それは経験だと私は思う。
何においても人より多くを経験すること、快楽を得ることが人としての厚みを同時に生み出すのかもしれない。時に大生活者として。

このご時世で世の中全体があまりにも、自分自身ではなく社会が描いた「幸福」を追い求めてしまいがちだ。自分のこれまでと勝手に重ねて胸に刺さる作品だった。今からでもとにかく自分の「快楽」を追い求めていきたい。

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