日々の学び:大江健三郎『あいまいな日本の私』

日本、あるいは日本人が病んだ、病気をした、それをもっとも大きいスケールで見るならば、それはこの二十世紀において、どういう病気だったでしょうか?私は、それが太平洋戦争においての帝国主義の膨張だったと思います。

大江健三郎の講演を文字起こしした本。大きく分けて2つの考えが繰り返し出てくる。

①太平洋戦争前後の「帝国主義化」と「和魂洋才」の流れ
②障害をもって生まれてきた息子、大江光

『性的人間』の中でも象徴的に見られた「過剰な自意識」という大江健三郎のスタイルの根底のものが本書を通じて理解できたような気がする。①からは、国家として欧米化や敗戦によって失ったアイデンティティを探す試み。②からは、「障害」という普通ではない経験から逆に「普通」を捉えなおそうとする、大江の試み。

一見、とんでもない変態小説家みたいな感じはありますが、井伏鱒二への愛や母国愛、息子への愛情など、実は誰よりも心優しい純文学家は大江なのかもしれない。

表現と秩序、世界の認識

芸術をつくるとはどういうことか?最初に混沌というか、混乱したナマのものがあります。私たちの人生、現実の世界はまず混沌としてある。それに秩序をあたえる、形をあたえることが、芸術をつくるということだと私は考えるのです。

芸術家は混沌とした世の中に秩序を示すことで、読者や見たものの世界を変えると大江は説く。読者から見ると世界が変わったように見えるが、実際には世界の「見方」が変わるだけであると。自分もこの考えは大好きで、本を読むことも音楽を聴くことも全ては自分の「世界の捉え方」を変えるため、角度を足すためだと思っている。特に大江がこの気づきを、障害をもった息子光の作曲から理解したというのが大変深い学びとなった。世界が混沌かつ変えられないものだとしても、世界へのかたちの与え方は変えられる。

井伏鱒二と「一元描写」

大江健三郎の口からは井伏鱒二への賞賛が大量に出てくる。その中で具体的な方法論として出てくるのが「一元描写」。「一元描写」とは

総合的な見方で人を把えるんじゃなくて、一面的にだけ、自分で把えられるところだけを書くこと

ここに破壊的な観察を持つことこそ、文学の役割であると大江は言う。

私たちが知っていることだけで世界が成り立っていると思わないで、それをうち壊して新しい世界をつくり出すことが文学の役割だということです。

ここで井伏鱒二の『黒い雨』が紹介される。まだ読んでないので今年中に読みたい。僕はこの「破壊的な観察」ということで「過剰な自意識」がなぜ大江のスタイルなのかよくわかった気がした。井伏鱒二と息子光、この二人の存在が大江なりの「破壊的な観察」に繋がったんだろう。

大和魂

日本文学においてはじめて用いられた「大和魂」という言葉は、女流作家、紫式部によるものだった、ということに注意していただきたい
〜日本人固有の「共通感覚」について紫式部は「大和魂」といっているのです。

「和魂洋才」という言葉がある。これはもともと「和魂中才」という言葉でした。日本人の行動を決定づける「大和魂」=「共通感覚」がある。しかし、その基盤に「才(ざえ)」=知的な力をやしなうもの=学問がなければ役には立たないと紫式部は書いていたそう。最終的には日本は「大和魂」さえあれば太平洋戦争に勝てる、という間違った思想に走るわけですが、ここでは「和魂中才」の考えは物の見事に逆転している。「才」がないわけです。

スポーツでも同じだ。「和魂洋才」の考えは大切にしようと思う。

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