日々の学び : 藤原正彦『国家の品格』


本サイトでは”現役スポーツアナリス”の「日々の学び」をブログとして残していきます。

概要

日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言。

(BOOKデータベースより)

感想

2000年の歴史から育まれた美的感受性、武士道からくる卑怯を憎む心、こうした日本人なら今まで普通に持っていたはずの情緒を取り戻せ、と藤原正彦は言う。その中で、英語教育の在り方(英語帝国に対する批判)と日本人の西洋化への批判が混ざる。

「〇〇は意味ない」、「〇〇はよくない」と言った発言はそれができる上でして欲しいと常々思うが、彼は語学に関しても才能があり日本語以外もかなり堪能に話すそうで。その上での英語教育批判には納得させられるものがある。

響いた言葉

日本人の英語下手の理由

英語の実力がアメリカ人の五割、日本語の実力が日本人の五割という人間になります。このような人間はアメリカでも日本でも使い物になりません。

藤原正彦も本文中で指摘するように、今の英語教育の問題は、英語も国語も中途半端な子供が多く生まれるであろうところにある。僕は学生時代に、塾講師として働いていましたが幼少期から英会話を習っていた生徒で国語が得意な生徒に一人も出会わなかった。帰国子女のように、完全に家の外は英語、中は日本語と分けない限りどちらも中途半端になってしまうというのは自分の肌感覚としてある。

とはいえ藤原正彦は英語めちゃめちゃ話せるらしんで、安易に「そうだ!そうだ!」と考えるのは早い笑 自分ももっと話せるようになったら英語教育批判しようと思う。正直、現行の英語教育がそんな悪いものだとも思わないので。学校でちょろっと英会話の時間増やしただけで英語話者が増えるなんて甘い話はない。

外国語は関係ない

ヴァイオリンはヴァイオリンのように鳴ってはじめて価値がある。

西洋人のように振る舞う日本人は、国際会議というオーケストラの中に必要ない、ということ。チェロのような音色のするヴァイオリンは、オーケストラには必要ない。僕も外国人と一緒に働く職場にいるが、日本人としての「情緒」は大切にしていきたいものだ。いい人すぎてはやられてしまいがちだが…

こと僕がNZで一番学んだことはここで、ある程度多様性を意見に作らないと人が複数人いる意味がない。幸い自分はヘッドコーチが多様性に理解のある方でしたが、ない人に当たったら僕はついていかないようにしたいのが正直なところ。

外国語よりも読書を

私がことあるごとに「外国語にかまけるな」「若い時こそ名作を読め」と言っているのは、私自身の取り返しのつかない過去への遺恨もあるからです。~情緒や形を育てる主力は読書なのです。

今こうしてこの本の感想を書いていることもそうだし、本を読んでいるのもそうだ。社会人になってから半年かけて「カラマーゾフの兄弟」を読み終えたが、社会人になると途端に本を読むための時間と精神的余裕がなくなる。本を読むのに時間がかかるわけだ。もし学生時代の自分に一言アドバイスできるなら、「もっと本を読め」と言いたい…

本を読む理由は、人の体験を疑似体験できること+知識、教養、語彙を増やすこと、そしていろいろな形で感動することだと思う。高校時代に「知識は世界を変える」と言われたことがある。「同じ事象を見ていてもその背景知識の有無で、そのものの見え方は大きく変わる」、ということだ。世界はあくまで僕らが認識した世界でしかないので捉え方を変えていきたい。

総合判断力を上げる

「論理的に正しい」ものがゴロゴロある中から、どれを選ぶのか。その能力が人の判断力です。それはいかに適切に出発点を洗濯できるか、が勝負です。別の言い方をすれば「情緒力」なのです。

「出発点を選ぶ」という考えはもっと拡張できると思っていて、「出発点」はあるゆる意思決定の前提となる。出口=アウトプットを常に逆算して、最短時間・最大成果を考えることも大切だが、その出発点は常に「情緒」に寄り添った倫理的に正しいものでありたいものである。

終わりに

めちゃくちゃ右な本で、僕は川端康成の『美しい日本の私』を思い出した笑

ただ最終的に川端康成は彼の「美しい日本の私」を理想像として自殺した。それに対して、藤原正彦は今もご健在。強く、たくましく、今の日本を憂う姿。その差は僕には大きい。

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