日々の学び : ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』


本サイトでは”現役スポーツアナリスト”の「日々の学び」をブログとして残していきます。

「移民」というものは日本人にはあまりピンとこない。というのも、元々島国であること、既に近隣のアジア圏からの2世の方々が多いなど様々な要因が複雑に絡まっていると思う。昔職場の方に、かつては「パッチギ」みたいな世界が本当にあったという話を聞きましたが、現代っ子の僕としてはとても信じられない。

ことラグビーでは有名な話であるが、ニュージーランドやオーストラリアではアイランダー系の移民(フィジー、サモアなどオセアニア諸島のポリネシアン系の方々)があまりにも多いことが問題視されている。選手の引き抜き問題である。根底の問題は選手自身が望んでパスポートを変えてしまうこと。代表に要する期間が5年になったことはラグビー界でニュースになった。

ジュンパ・ラヒリはインド系の移民であり、移民でもなくアメリカ人でもない「間」の目線として作品を書いています。ピュリッツァー賞作家ではありますが、あまり難しくない平易な文章だったと思う。日本語で読みましたが。「みずみずしい感性」と評されているように、悲しいような爽やかなような、ノスタルジーなのか明るい未来なのか、不思議な感覚になる素敵な作品だった。好きだった3つの短編の感想を書いていく。

「ビルサダさんが食事に来たころ」

インド系移民の2世リリアの両親が、パキスタンからの移民であるビルサダさんを食事に招くところから始まる。1971年パキスタン紛争が起きている中、ビルサダさんとの交流と別れを通じて、リリアはルーツに興味を持つが、教育によってその芽を摘まれたように描かれる。

インドの歴史を学ばない2世に対する両親の違和感や、教育によってインドが「ルーツ」ではなくなっていく感覚がリリアの目線から描かれる。「停電の夜に」の中で、アイランダーの移民問題に通づる部分を強く感じるのがこの短編だ。1世はより良い環境を求めて移住しますが、2世は教育によってルーツそのものを今いる国に変えていくのだろうと思う。

「三度めで最後の大陸」

インド→イギリス→アメリカと、最終的にアメリカに移住するインド人の「私」と彼に嫁ぐためにインドから移住したその奥さん。下宿先のある老婦人のおかげで距離を縮め、アメリカへの生活に馴染んでいく。

インドの結婚システムへの興味深さと、それが移民だった場合のケースが重なり、文化的な学びの一番大きい短編だったと思う。学問をするためにイギリスへ渡り、食生活はカレーからシリアルへ、カレーを食べても手を使わない。衣食住が変化して移住先に馴染んでいく様子がとても興味深い。それは主人公だけでなく、夜な夜な泣いていた奥さんも子供ができると、故郷はアメリカとなり、インドは肉体的だけでなく、精神的に遠い場所へと変化していく。そして、子供にとってインドは「ルーツ」であっても旅行先に近い感覚に置き換わる。

「停電の夜に」

邦題になっている「停電の夜に」はそこまで移民関係ない話ではあるのですが、好きなので感想を記しておく。

五日間の計画停電を夫婦がろうそくで過ごす中で、腹を割って話す。離れていた夫婦の距離が近くなると思いきや、ショックなラストで幕を閉じる。とはいえ、悲しいようで悲しくないラストで、絶妙な塩梅がこの短編の一番の魅力だと思う。移民の話ではなく、ただただ内面描写が緻密で「みずみずしい」文章がたまらない。村上春樹が好きな方はよく知っていると思うのですが、アメリカ文学というと淡々とした「乾いた」文章の印象がある。ジュンパ・ラヒリのこの短編集は全編、淡々としてますが乾いていない。インド系二世として、アメリカ人でもインド人でもない子供に見えていた世界が英文の三人称視点にとても馴染んでいるのだと思う。一人称でありながら三人称、といった感想です。

雑感:アイランダー

ニュージランドだとアイランダー系の移民は、子供達が既に3世、4世とかいうレベルになっている。僕より年上が2世だったらまだ若い方な印象だ。彼らにルーツを聞けばそれぞれの国ではあるが、思っている母国はニュージランドなのだと思う。子供達をルーツの国に連れていく話を聞くことはあっても、それはもはや子供達には旅行なのだろうと。なんのはっきりした意見も書いていないが、ニュージーランドのような移民の多い国に行くと、アイデンティティというかナショナリズムというか、母国とはなんだろうと感じる。日本に住んでいるだけだと、このあたりの感覚がまったく理解できない。これから何年か働いたとしても、自分がニュージーランドに本当に馴染むことは絶対ないんだろうなあ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です